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マダムイヴォンヌのジュエリー講座

クラブ・サーのメールマガジン『クラブサー通信』掲載
【 マダム・イヴォンヌのジュエリー講座 】

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 宝石の鑑定と鑑別[1][8]

[1]宝石鑑定書と宝石鑑別書
[2]ダイヤモンドの「4C」とは
[3]カット減点
[4]カラット重点主義
[5]ブリリアントカット (1)
[6]ブリリアントカット(2)
[7]ダイヤモンドは硬い? (1)
[8]ダイヤモンドは硬い? (2)

 伝説の宝石[1][26]

[1]Hope Diamond (1)
[2]Hope Diamond (2)
[3]Hope Diamond (3)
[4]Hope Diamond (4)
[5]伝説のルビー(1)
[6]伝説のルビー(2)
[7]伝説のルビー(3)
[8]伝説のルビー(4)
[9]コ・イ・ヌール(Koh-i-noor) (1)
[10]コ・イ・ヌール(Koh-i-noor) (2)
[11]コ・イ・ヌール(Koh-i-noor) (3)
[12]コ・イ・ヌール(Koh-i-noor) (4)
[13]コ・イ・ヌール(Koh-i-noor) (5)
[14]カール大帝の護符 (1)
[15]カール大帝の護符 (2)
[16]カール大帝の護符 (3)
[17]カール大帝の護符 (4)
[18]カール大帝の護符 (5)
[19]カール大帝の護符 (6)
[20]カール大帝の護符 (7)
[21]カール大帝の護符 (8)
[22]カール大帝の護符 (9)
[23]カール大帝の護符 (10)
[24]マクシミリアンの2つのダイヤモンド (1)
[25]マクシミリアンの2つのダイヤモンド (2)
[26]マクシミリアンの2つのダイヤモンド (3)

 

〔1〕宝石鑑定書と宝石鑑別書

(2009年4月号掲載)

宝石鑑定書と宝石鑑別書はどう違うの?・・・と疑問を持たれたことはありませんか?

「宝石鑑定書」はダイヤモンドのみに適応され、天然の裸石を拡大鏡を使って4Cと言われるグレードにより、その石がどれ位のランクなのか鑑定されたものです。

4Cとはカラー(色)、クラリティ(キズ、内包物、透明度)、カラット(重量)、カット(形状、研磨)であり、4つの頭文字がどれも「C」なので、こう呼ばれています。

それに対して「宝石鑑別書」はダイヤモンド以外の宝石について科学的に、機材を使い屈折率・比重・偏光性・多色性など7項目の検査の結果、この石が何であるか判断されたものをいいます。

ところで「宝石鑑定士」は、税理士や薬剤師のように国家資格があるわけではありません。つまり誰でも名乗れるため、信頼のおける機関・団体の発行した鑑定・鑑別書を選ぶことが大切です。世界で最も信頼され権威があるのはGIA(米国宝石学会)であり、日本ではCGL(中央宝石研究所)などです。
 
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〔2〕ダイヤモンドの「4C」とは

(2009年5月号掲載)

前回は、ダイヤモンドのみに適応される宝石鑑定書の中で、その石のランクが決定されるのは「4C(カラー、クラリティ、カラット、カット)」であるとお話ししました。

今回は、その「4C」について説明します 。

まず[カラー(colour)]は、マスターストーンといわれる基準石とつき合わせをし、色の等級分類を決めます。日本では、アメリカ宝石学会による方式に従い、DEF・・・Zまでで表示され、DEFは無色、G〜Jがほとんど無色・・・Zに近づくほど黄色味が濃くなり、評価が下がって行きます。

次に、[クラリティ(clarity)]とは、キズや内包物、透明度を10倍のルーペで見て鑑定をします。ダイアモンドは天然石であるため、倍率の高い顕微鏡で見るとキズや内包物の無いものはなく、したがって倍率の基準が必要になるわけです。

そして、私たちに一番身近なものとしては[カラット(carat)]ですね。 カラットは大きさだと思っている方もいらっしゃると思いますが、実は「重さ」の単位で、1カラットは0.2gです。

最後が、[カット(cut)]といわれる、形状、研磨の状態です。 ほとんどの宝石鑑定書に表示されないこの[カット]が、実はダイヤモンドの美しさを決める重要なポイントになるのです。
 
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〔3〕カット減点

(2009年6月号掲載)

今回は、前回ご説明した4Cの中でも、ダイヤモンドの美しさを決める重要なポイントでありながら、重要視されない[カット]についてお話しします。

ダイヤモンドは原石のままでは光りません。
光と虹を最大限に引き出すためには、理想のプロポーションと言われる、ブリリアントカットに研磨しなくてはなりません。採掘された原石から、プリリアントカットを採るために、余分な部分を削り取りますが、これを「歩留まり」と言います。よく「効率が良い(悪い)」と言うときに、「歩留まりが良い(悪い)」と言いませんか?

ダイヤモンドの販売者は、少しでも「歩留まり」を良くし、削る部分を少なくしようとするため、できた製品は必ずしも理想のプロポーションとならないことがあります。 例えば、製品となったダイヤモンドから、更に36%の余分な部分を削らなければ理想のプロポーションにならない場合、その宝石鑑定書には[カットグレード36%減点]と書かれ、価値が決められるべきなのです。

しかし、ほとんどの宝石鑑定書には、4Cのうち、カラー(色)、クラリティ(透明度・キズ・内包物)、カラット(重さ)しか書かれていません。
 
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[4]カラット重点主義

(2009年7月号掲載)

今回はダイヤモンドをめぐる、「消費者の無知と販売者の儲け主義」に関わるお話です。

以前「4C」でもお話ししましたが、「カラット」というのは重さの単位です。しかし、消費者の中には、カラットが大きさの単位で、ダイヤモンドの価値はカラットによって決まると考えている人も多いのです。(=カラット重点主義)

そのため販売者は、できるだけ大きい石を作り出すために、削り取る部分をなるべく少なくしようとします。前回ご説明した「歩留まり」を良くすることで、損も少なくなる訳です。しかしそれでは、ダイヤモンドが一番輝く[理想のプロポーション]から遠ざかってしまい、カット減点が多くなり、ダイヤモンドのグレードは低くなってしまいます。その結果、ダイヤモンドの価格は下がり、カラット重点主義の消費者たちには「大きくて安い!」と喜ばれ、まさに「需要と供給」が一致するのです。

大きくてもあまり輝かないダイヤモンドを見たことはありませんか? ダイヤモンドの真の価値は、その[プロポーション]にあって、カラットではないというお話でした。
 
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[5]ブリリアントカット (1)

(2009年9月号掲載)

 ブリリアントカット 今回と次回で、なぜブリリアントカットが理想のプロポーションと言われるのかをご説明していきます。

まず、ダイヤモンドには、光の三大要素と呼ばれるものがあります。

それは[ ブリリアンシー : Brilliancy ](明るさ)、[ ディスパージョン : Dispersion ](虹色)、[ シンチレーション : Scintillation ](きらめき)というものです。

「ブリリアンシー」とは、ダイヤモンドから反射されて出てくる光の量のことです。ブリリアントカットでは、外部から入った光が全て反射され上部から出て来るので、大変明るく感じます。 数学者が計算から、また研磨師が経験からたどり着いたブリリアントカットは、すべての光がどこからも通り抜けること無く屈折を繰り返し、上部のテーブル面と言われるところから出てきます。 光を当てると、光源と同じ明るさで光るのがおわかりになるでしょう。

 
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[6]ブリリアントカット (2)

(2009年10月号掲載)

前回は「ダイヤモンドの光の三大要素」の一つ、[ ブリリアンシー : Brilliancy ](明るさ) を説明しましたが、今日は、[ディスパージョン : Dispersion ](虹色)、[ シンチレーション : Scintillation ](きらめき)についてお話しします。

プリズムに入った白色光は、屈折率の異なる色の光に分散され、スペクトルと呼ばれる七色の虹となって人の目に映るという原理を聞いたことがありますか?

[ディスパージョン]とは、外部から入った光が屈折反射を繰り返し虹色に分解されるものです。 屈折率の違う光は虹色に分かれ、各々の色の光がまた反射を繰り返し、上部テーブル面から放射される光は、7色の虹色が幾重にも増幅され輝きます。

そして[シンチレーション]は、光や石を動かしたとき見られる、きらめきのようなフラッシュ効果です。パビリオンと呼ばれるカットの下部が、深すぎても浅すぎても、光はどこかから抜け出てしまいます。

全ての光が石を通り過ぎて抜け出ることなく、反射屈折をくり返し、虹色に分かれ、揺れ動く・・・それこそが「理想のプロポーション」と言われるブリリアントカットなのです。
 
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[7]ダイヤモンドは硬い?(1)

(2009年11月号掲載)

ダイヤモンドは、天然の物質の中で一番硬いと言われています。

しかしこれは「引っかいたときの傷のつきにくさ」であり、「ハンマーで叩いた時の壊れにくさ」ではありません。

ところで、ダイヤモンドは[C(炭素)]という単一元素だけでできていることをご存知ですか?

[炭素]といえば石油、石炭、天然ガスなどのエネルギー・原料として、あるいは二酸化炭素やメタンによる地球温暖化問題など、私たちと密接に関わる元素で知られています。

また、人体のたんぱく質、脂質、炭水化物に含まれる原子の過半数が[炭素]であることにより、乾燥重量の3分の2は[炭素]であり、光合成や呼吸などの生命活動全般において重要な役割を担ってるということにも驚かされます。

鉛筆の芯に使われる黒鉛もダイヤモンドも同じ元素である[C(炭素)]から構成される「同素体」といわれるものです。

ダイヤモンドは「共有結合」と言って原子がギュッと固まり合っているため傷かつきにくいのに対して、黒鉛は層状になっているため柔らかく壊れやすいのです。

しかし、どちらも燃やしてしまえば二酸化炭素が残るだけ・・・。
そんなダイヤモンドにも、簡単に壊れやすい性質があります。
 
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[8]ダイヤモンドは硬い? (2)

(2009年12月号掲載)

前回は、ダイヤモンドは硬い!というお話をしましたが、それは傷がつきにくいということであって、実は、ある方法によれば、ダイヤモンドは簡単に割れてしまうのです。

ダイヤモンドは八面体結晶というもので、4方向に「へき開」します。「へき開」とは、結晶がある決まった面で割れる性質を表す、鉱物学、結晶学用語です。大きな岩が、小さな楔(くさび)1つで真っ二つに割れてしまうこともあります。鉱物の硬さを示すモース硬度が、一番高い『10』といわれるダイヤモンドも、この「へき開」の性質を利用してカットされるのです。

現在では、さまざまな方法で人造ダイヤモンドが作られています。 もはや高価なものではなくなった人造ダイヤモンドは、主に工業用に使われるようになりました。

そして宝飾用の人造ダイヤモンドも、不純物もなく透明度は高く、無駄のない理想のプロポーションとして作られるようになりました。

皆様も、クラブサーの人造ダイヤモンドで、ぜひその輝きを実感してみてください。
 
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[1]Hope Diamond (1)

(2010年1月号掲載)
ブルー・ダイヤモンド
今年から始まる「伝説の宝石シリーズ」。
幕開けを飾るのは、瑠璃色に輝く卵型の『ホープダイヤモンド』です。

このダイヤモンドは「呪われたブルー・ダイヤモンド」としても有名で、現在はワシントンにあるスミソニアン博物館の一つ、国立自然史博物館で宝石コレクションの目玉として見学者を迎えています。

しかし、最初からこの場所に置かれていたわけではありません。スミソニアンに静かに収まるまでの数百年間、どこを旅し、持ち主となった人々にどのような運命を与えてきたのでしょう。

なぜ冠に「ホープ」とつけられ、「呪われた…」などと有難くない呼称まで賜ったのでしょうか。

伝説は1642年、インドのヒンドゥー寺院でのある出来事から始まります。フランスの冒険家ジャン・バティスト・タヴェルニエが、寺院の女神像シータの眼に嵌められていた112.50カラットのダイヤモンドの原石をくりぬいて盗み、本国に持ち帰りました。一説によれば、このとき盗みに気付いた寺院の僧侶が、あらゆる持ち主に呪いをかけたともいわれます。

当時のフランスは、太陽王ルイ14世の治世下。フランスに渡った瑠璃色のダイヤモンドは、その後どうなったのでしょう。
 
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[2]Hope Diamond (2)
(2010年3月号掲載)

さて、冒険家タヴェルニエによってインドから盗み出された『瑠璃色のダイヤモンド』は、彼の故国フランスへと持ち帰られました。

そして1668年、ヴェルサイユ宮殿を建造中だった国王ルイ14世が、これを買い取ります。時はブルボン王朝の全盛期・・・宝石好きでも知られた国王は、112.50カラットあったダイヤモンドを67.50カラットのハート型の宝石にカッティングし、『フレンチブルー・ダイヤモンド』と呼ばせたといわれます。

やがてルイ15世、ルイ16世へと受け継がれた『ブルー・ダイヤモンド』は、ルイ15世の寵妃ポンパドゥール夫人や、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットの白い胸元を美しく飾ったことでしょう。

しかし、ブルボン王朝の終焉は、皆さんもよくご存知の通りです。
ダイヤモンドの呪いは、ルイ14世が手にしたときから既に始まっていたのかも知れません。彼が宝石を手に入れた後、フランスは相次ぐ戦争のための莫大な戦費によって衰退の兆しを見せ始めました。財政は破綻への一途をたどり、民衆は重税に苦しみます。跡継ぎとして即位した曾孫ルイ15世は天然痘に倒れ、その孫のルイ16世と王妃は、フランス革命によって二人とも断頭台の露と消えました。

そして『ブルー・ダイヤモンド』も1792年9月11日、王室の宝玉庫からこつ然と姿を消してしまったのです。
 
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[3]Hope Diamond (3)

(2010年4月号掲載)

1792年、フランス革命の最中にこつ然と姿を消したブルー・ダイヤモンドは、40年近い歳月の後、1830年、ロンドンの競売会場に再び現れました。いったいその間、どこに隠されていたのでしょうか?

実は、ダイヤモンドが消えた当時、国王一家は囚われて幽閉の身。そこを窃盗団が王室の宝玉庫から盗み出したといわれています。

一味は宝石の出所が判明しないようにブルー・ダイヤモンドをカッティングして、アムステルダムの宝石商に売却しました。67.5カラットあったダイヤモンドは、この時点で45.5カラットになったとされます。

ところが、宝石商の息子がダイヤモンドを密かに横領、そのショックで父親である宝石商は死亡し、息子も大金を手にしたものの使い果たし、自殺しました・・・呪いは、持ち主が変わっても終わらなかったのです。

再びロンドンの競売に出たブルー・ダイヤモンドを競り落としたのは、銀行家のヘンリー・フィリップ・ホープでした。彼に因んで、この時から「ホープ・ダイヤモンド」と呼ばれるようになります。

彼の死後も、ホープ家は4代にわたってダイヤを持ち続けますが、やがて破産。その後持ち主となった人物たちも、次々と不慮の事故死、自殺、精神障害などの不幸に見舞われます。呪いは、まだまだ終わらないのです。
 
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[4]Hope Diamond (4)

(2010年5月号掲載)

ホープダイヤモンドをめぐる呪いの伝説も、いよいよ最終章を迎えました。

4代に渡って持ち続けたホープ家が崩壊した後、このダイヤモンドは、どのような人々の手に渡り、その持ち主たちの運命はどうなったのでしょうか?    

ホープ家の次に手に入れたのは、フランス人宝石ブローカーでした。しかし、彼は発狂して自殺。 そして、次の持ち主であるパリの舞台女優も、愛人に射殺され、その愛人もまた革命家に殺害されたといわれます。

続いて手にしたオスマン帝国のスルタンは失脚。ギリシャの商人は、自動車事故で一家全員が死亡しました。 さらに、アメリカの富豪マクリーン夫人が手に入れましたが、彼女も息子の事故死、娘の自殺、夫のアルコール中毒という苦難に見舞われます。    

持ち主にはならなかったものの、仕事でホープダイヤモンドを身につけた女性もいます。 その人の名はマリリン・モンロー。彼女は主演映画の撮影でこのダイヤを身につけました。そして映画公開から9年後、謎の死を遂げています。

ホープダイヤモンドを最後に買い取ったのは、アメリカの宝石商ハリー・ウィンストンでした。彼は17万9920ドルでマクリーン家からこれを購入。しかし、不幸な出来事に遭遇することなく、後にワシントンのスミソニアン協会に寄贈しています。

数奇な呪いの伝説に彩られたホープダイヤモンドは、こうしてやっと安住の地を得たのです。現在も、世界最大のブルーダイヤモンドとして瑠璃色の輝きを放ちながら、スミソニアン博物館で静かに見学者の訪れを待っています。(終)

 
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[5]伝説のルビー (1)

(2010年6月号掲載)
ルビー
燃えるような赤い色から、炎の宝石とも呼ばれ、古来より身につけると守ってくれる力があると信じられてきたルビー。そのため、多くの伝説が残されています。

しかし、ルビーが広く赤い石のことを意味していたために、長い歴史の中でルビーだとされていた石が、実はスピネル(尖晶石)など、他の石であったという例も多く見られます。代々の英国王室の王冠を飾り、現在もロンドン塔で守られている「黒太子のルビー」、世界最大のルビーとして有名な「ティムール・ルビー」も、その例に当たります。


これらの詳しいお話は、次回以降のお楽しみとさせていただいて、ここで、ルビーという石の本質に、ちょっと触れてみましょう。

実は、赤色のルビーと青色のサファイヤは、コランダム(鋼玉石)と呼ばれる、同じ酸化アルミニュウムの結晶で、ダイヤモンドに次ぐ、硬度9の硬さを持っています。

地層深くにしか存在しない酸化クロムが、まれに地表近くに上がってきて酸化アルミニウムと結合し、赤いコランダム(ルビー)ができたのです。そのように偶然によってできたルビーは産出量が少なく、特に大粒の結晶が採れることは非常にまれであり、5カラット以上のものはまず産出されません。そして、1カラットを超えるルビーは、ダイヤモンドやエメラルドよりも得難く、価格もはるかに上回ると言われます。

ルビーがサファイヤと同じ石であり、大きいルビーはあり得ない!なんて興味深いですね。

また、赤い色とひと言で言っても、紫がかった淡い赤、暗赤色のガーネットのような赤などいろいろありますが、その中で最も美しく最高の価格が付けられるものは、「ピジョンブラッド(鳩の血)」と呼ばれる、彩度も透明度も高い真紅のルビーです。

 
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[6]伝説のルビー (2)

(2010年7月号掲載)


イギリスのエリザベス女王のプライベートコレクションの中に、[ ティムール・ルビー ] として名高い、巨大な赤い宝石があります。大きさはなんと353.5カラット。

これが、なぜ [ ティムール・ルビー ] と呼ばれるのか、その答えを探しに、14世紀にさかのぼってみましょう。

「ティムール」とは、中央アジアのモンゴル貴族の家系に生まれた軍人の名前、そしてその人物が建国した帝国が「ティムール帝国」です。彼は1398年、サマルカンドの都からインドへ遠征し、デリーを占拠しました。その時に手に入れたのが、この宝石です。

石には、ティムール以後に所有した6人の名前が刻まれており、判読可能な限りでは、1628〜58年の持ち主は、あのタージ・マハルを建立したムガール帝国5代皇帝シャー・ジャハーンで、この年代に皇帝に即位していたことがわかっています。そして1739年、ペルシャのナディル・シャーがムガール帝国に攻め込んだ際、当時の皇帝が差し出した多くの財宝の中に、[ ティムール・ルビー ] もあったというわけです。

1849年、アジア地域との貿易独占権を持っていた東インド会社が、この宝石をイギリスへ持ち帰り、王室に納めました。その後長い間、世界最大のルビーとして有名でしたが、後の科学分析の結果、英王室の王冠を飾る「黒太子のルビー」と同様、「ティムール・ルビー」もルビーではなく、赤い「スピネル(尖晶石)」であったことが判明しています。

 
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[7]伝説のルビー (3)

(2010年8月号掲載)

黒太子のルビー
ティムール・ルビーと並び称されるルビーに、[ 黒太子(Black Prince)のルビー ] があります。14世紀からイギリス王室に継承されてきた、この有名な宝石は、戴冠式用の王冠の正面中央部に飾られています。実は、この宝石もルビーではなく、鶏の卵状の巨大なレッドスピネルで、カットはされずに研磨だけされており、その重さも140、170、317カラットと諸説あります。

黒太子とは、14世紀のイングランド王エドワード3世の長子エドワード皇太子(1330〜1376)のこと。父王エドワード3世は、100年戦争を起こした人物でもあり,黒太子は16歳の頃から生涯のほとんどを戦場で過ごしました。数々の戦闘で勝利を収め、戦場で常に黒い鎧を身に着けていたため、後に黒太子と呼ばれたといわれます。

1376年、カスティーリャ王国(現在のスペイン中央部)のペドロ1世は、クーデターによって王位を追われ、エドワードに軍事援助を求めました。エドワードは、カスティーリャに攻め入って形勢を逆転させ、ペドロを見事に復権させたのです。その際、ペドロから感謝のしるしとして贈られたのが、このルビーでした。

しかし、エドワードは同じ年に父王より早く病死したため、王位に就くこともなく、この宝石が彼自身の鎧や王冠に飾られることもありませんでした。

 
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[8]伝説のルビー (4)

(2010年9月号掲載)

前回お話しした「黒太子のルビー」の、その後のお話です。

エドワード王太子亡き後、ヘンリー5世が百年戦争の戦場に赴向く時、兜の中央にこの宝石を取り付けました。 そして、1415年アジャンクールの戦いの際、フランス軍のアランソン公ジャン1世に兜を叩き割られますが、なんと宝石もヘンリー5世本人も無事だったそうです。

ヘンリー5世の死後、1485年には、リチャード3世が鎧に取り付けて薔薇戦争に参戦したという記録もあります。こうして黒太子のルビーは、幾度もの戦いをくぐり抜け、戦場で代々のイギリス王を守護してきました。

19世紀ヴィクトリア女王の時代に入ってからは、歴代の国王の王冠に装着されるようになります。国王によって飾る位置に違いがありますが、現エリザベス女王戴冠の際には、王冠正面に取り付けられました。

ルビーではなく、スピネルであったことが判明してもなお、王室の守護石として大切に守られ、現在もロンドン塔宝物館に展示されています。 そして、ガイドブックでは今も「ルビー」となっており、あえて訂正しないのは、イギリス王室の気高さ(?)からでしょうか?(終)

 
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[9]コ・イ・ヌール (Koh-i-noor) (1)

(2010年10月号掲載)

ロンドン塔ロンドン塔

「黒太子のルビー」とともに、ロンドン塔の王室宝物館に永久展示されている宝石に、 「コ・イ・ヌール (Koh-i-noor)」と呼ばれ、世界で最も有名かつ最も古い歴史を持つと言われるダイヤモンドがあります。その圧倒的な輝きで、インドやペルシャの王たちを虜にし、彼らが何としても手に入れたいと望んだ、伝説の宝石です。

「コ・イ・ヌール」とは、ペルシャ語で「光の山」という意味。この石を手にしたペルシャの王が、あまりの感動から「光の山よ!」と叫んだ言葉が、そのまま名前になりました。

一説によれば、5000年の時空を超えて輝き続けているとされ、かつては800カラットの、世界最大のダイヤモンドであったとも言われています。

また、「この宝石を持つ者は世界を制する」、「男性が持つと不幸になるが、女性が持つと幸せになる」などのミステリアスな伝説も数多くまとっていました。果たして、歴史はその通りだったのでしょうか。

「コ・イ・ヌール」が発見されたのは、インド南東部と考えられています。その後は、インドの王族が所有していたと思われますが、明確な記録はありません。歴史の舞台に登場する以前の真実は、霧に包まれているのです。

 
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[10]コ・イ・ヌール (Koh-i-noor)(2)

(2010年11月号掲載)
コ・イ・ヌール コ・イ・ヌールのガラスのレプリカ

105.6 carats, 21.6g, Reich der Kristalle博物館蔵(ミュンヘン)

ロンドン塔に保存されている英国王室所有の宝石の中でも、最も有名な宝石の一つ、「コ・イ・ヌール」ダイヤモンドは西暦1304年、インドのマルワ王の聖なる宝物として歴史の舞台に初めて登場します。

そして1526年には、デリーを征服したムガール帝国の初代皇帝バーブルの手に渡りました。

このダイヤは、バーブルに気に入られ「バーブル・ダイヤモンド」とも呼ばれ、彼が執筆した『バーブル・ナーマ』にも、このダイヤに関する記述が書かれています。

時は移り18世紀に入ると、ムガール帝国の都デリーは、ナディル・シャー率いるペルシャに占領、支配されてしまいます。この名前、どこかで覚えがありませんか? そう、「ティムール・ルビー」の持ち主でもあった人物です。 ムガール帝国に攻め入って勝利を収めたとき、どうやら皇帝が差し出した財宝をごっそり手に入れ、その戦利品の中に「ティムール・ルビー」とともにあったのが「コ・イ・ヌール」でした。

この侵略者ナディルはなかなかの策士です。皇帝に疎まれていた第一夫人から、皇帝がターバンの中に常にダイヤモンドを隠し持っていると教えられた彼は、勝利の祝宴の席で、「友情の証にターバンを交換しよう」と皇帝に提案したのです。それは、インドの習慣として拒絶できないことでした。ナディルは、巧妙な手口で「コ・イ・ヌール」をまんまと手に入れたのです。燦然と輝くダイヤを手にして、彼はこう叫んだといわれます。
「光の山(コ・イ・ヌール)よ!」

 
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[11]コ・イ・ヌール (Koh-i-noor)(3)

(2010年12月号掲載)
コ・イ・ヌール2光の山と呼ばれるKoh-i-noor
ムガール帝国を破り、その皇帝から巧妙な方法でコ・イ・ヌールを手に入れたのは、ペルシャ・アフシャール朝(現在のイラン、アフガニスタン)のナディル・シャーでした。しかし、全盛を誇ったナディルも、1747年、4人の官吏に暗殺されてしまいます。

その後王朝は分裂し、跡継ぎの息子シャー・ルクはコ・イ・ヌールのために度々拷問を受けて失明・・・そしてこのダイヤモンドは、さらなる陰謀や政権争いに
巻き込まれ、多くの支配者たちの手を転々と渡っていくことになります。

ペルシャからコ・イ・ヌールを取り返したのは、「パンジャブの虎」と呼ばれた、インドのパンジャブ王ラジット・シンでした。彼もまた、コ・イ・ヌールをたいそう気に入り、指輪に加工して身に着けていたといわれ、僧侶から寺院に寄進を勧められても、けっして手元から離さなかったという逸話も残っています。

19世紀半ば、インドはイギリスに征服され、パンジャブ地方もイギリスの植民地となりました。このときコ・イ・ヌールも、大英帝国の女帝であったヴィクトリア女王に献上されたのです。

輝きを奪い合った幾多の男たちに、悲惨な最期をもたらしてきた伝説のダイヤモンドコ・イ・ヌール。初めて渡ったヨーロッパは、果たして安住の地となったのでしょうか。

 
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[12]コ・イ・ヌール (Koh-i-noor)(4)

(2011年1月号掲載)
Queen VictoriaQueen Victoria
19世紀半ば、インドからはるばる海を渡ってイギリスへ運ばれた「コ・イ・ヌール」は、当時インドを統治していた、大英帝国ヴィクトリア女王に献上されました。

ヴィクトリア女王は18歳で即位し、64年もの長い間、大英帝国の女王として君臨した女性です。

その後、1851年に、「コ・イ・ヌール」はロンドン万国博覧会で展示されました。しかし、光の屈折が少ないインド式のカットが施されていたため、輝きが足りないと人々に不評でした。

そこで女王は、アムステルダムの研磨師を招き再び研磨させ、歴史上最も有名なダイヤモンドの1つ「コ・イ・ヌール」は、186カラットから108.93カラットの楕円形に仕上げられ、さらにブリリアントカットが施されました。 女王は、この美しく生まれ変わった宝石を、ブローチにセットして愛用していました。

ヴィクトリア女王治世下のイギリスは、産業革命による経済の発展が成熟期に達し、史上最も輝かしい時代でした。 さらに、女王自身の家庭生活も円満で、「コ・イ・ヌール」を手に入れても、女王の身の上に不幸は起こらなかったのです。「男性が持つと不幸になるが、女性が持つと幸福になる」という伝説は、本当だったのかもしれません。しかし、迷信深かったヴィクトリア女王は、「男性の国王が相続した場合は、その妻しか身に着けてはならない」と遺言しています。

 
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[13]コ・イ・ヌール (Koh-i-noor)(5)

(2011年2月号掲載)
英国国王冠英国国王冠
インドから献上された「コ・イ・ヌール」を、ブローチにセットして愛用した大英帝国のヴィクトリア女王。イギリスの全盛期に64年間君臨しましたが、1901年、82歳の長寿を全うして亡くなりました。

「男性が手にすると、大きな不幸をもたらす」という昔からの伝説を信じ、「男の国王が相続した場合は、その妻しか身に着けてはならない」と言い残した女王の遺言は、今も厳格に守られています。 ロンドンで最も人気のある史跡の一つであるロンドン塔。ここでは14世紀初頭から、「クラウン・ジュ―エル」(王権を表す儀式用の宝石類)を守り続けてきました。

「コ・イ・ヌール」も例外ではなく、現女王エリザベス2世の母后であるエリザベス皇太后の王冠に装着され、ロンドン塔の中で厳重に保管されています。戴冠式や重要な儀式のとき以外、外に出ることはありません。

伝説のダイヤモンド「コ・イ・ヌール」は、人類の歴史に最も早く登場するダイヤモンドであり、いかなる宝石よりも強いパワーを持つといわれてきました。数々の王たちを虜にした圧倒的な輝きを、機会があれば、この目で見てみたいものですね。(終)
 
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[14]カール大帝の護符 (1)

(2011年4月号掲載)
Blue SapphireBlue Sapphire
イギリスのみならず世界中では今、間近に迫ったロイヤルウエディングに沸いています。言わずと知れた、イギリス王室のウィリアム王子とケイト・ミドルトンさんの結婚式です。

昨年11月、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で行われた、結婚発表の会見を覚えていらっしゃる方も多いでしょう。ウィリアム王子の横に並んだ美しい婚約者ケイトさんの左手薬指には、縁をダイヤモンドで飾られた、これまた美しいブルーサファイアの婚約指輪がはめられていました。

王子は、プロポーズの際にこの指輪を彼女に渡そうと思い、失くさないようにリュックサックに入れて持ち歩いて、機会を待っていたそうです。「自分にとって、とても特別なもの」と王子が語ったこの指輪こそ、父チャールズ皇太子が、亡き母であるダイアナ元妃に贈った婚約指輪でした。

「青」は、ロイヤルファミリーを象徴する色。故ダイアナ妃は深い青色をしたこの指輪を愛用し、公式の場でも好んで身に着けていたそうです。その母の形見の指輪を、「この日を母が見逃さないように」と、ケイトさんに贈ったウィリアム王子の思いに、胸打たれます。

ブルーサファイアにちなんで、「伝説の宝石」の最後は、「カール大帝の護符」と呼ばれるペンダントにまつわるお話をします。

 
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[15]カール大帝の護符 (2)

(2011年5月号掲載)
カール大帝の護符
カール大帝(742〜814)は、5世紀〜9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したフランク王国の国王で、一般にドイツ語読みの「カール (Karl)」で知られていますが、フランス語読みで「シャルルマーニュ (Charlemagne)」と呼ばれることもあります。

「護符」とは、日本風に言えば「お守り」のこと。このお守りはペンダント型をしており、真珠、ガーネット、エメラルドなどで飾られた金の枠の真ん中に、巨大なサファイアが埋め込まれています。つまり、たいへん豪華な「魔除けのお守りペンダント」ということになるでしょう。中央のサファイアは背中合わせに2つはめ込まれていて、一説によると、キリストが十字架にかけられたときの木片と、聖母マリアの髪が挟まれているとも言われます。

このペンダントが、なぜカール大帝のお守りになったのでしょうか。それは、もともと中東地域を支配していたアッバース朝のカリフから贈られたものでした。カール大帝は、護符として常に身に着け、彼の死後は遺体とともにドイツ西部のアーヘン大聖堂に埋葬されました。

真ん中のサファイアは「皇帝の石」「持つ者を必ず皇帝に就ける石」とも言い伝えられています。カール大帝から千年近い時を経て・・・フランスに現れ皇帝となった誰もがその名を知る人物も、この護符のためにその運命を翻弄されていくのです。

 
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[16]カール大帝の護符 (3)

(2011年6月号掲載)
アーヘン大聖堂世界遺産アーヘン大聖堂 (ドイツ)
西暦814年、カール大帝が亡くなると、その遺体は常に身に着けていた魔除けペンダント、通称「カール大帝の護符」とともに、ドイツのアーヘン大聖堂に埋葬されました。

それから200年の時が過ぎ、時の皇帝オットー3世が霊安所を開帳したところ、遺体はほとんど腐敗していなかったといわれます。「タリスマン(護符)が起こした奇跡だ!」と当時の人々が考えたのも、無理のないことでしょう。

その後、「カール大帝の護符」だけが、大聖堂の宝物庫に保管されていました。あのフランス皇帝ナポレオン1世の手に渡るまでは・・・

ところで、ナポレオンと結婚したジョセフィーヌについて、皆さんはどんな印象をお持ちですか? 18世紀末のフランスで、ナポレオンと結婚したジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ・・・

彼女は貴族出身で、エキゾティックな美貌の持ち主でしたが、大変な浪費家で、また恋多き女性でもありました。最初の結婚で、一男一女をもうけたものの離婚。元夫は後に処刑され、彼女は二児を抱えた未亡人として乱世を生き抜くため、美貌を武器に大物政治家の愛人となりました。

そして、この社交界の花形は、年下のナポレオンと運命的に出会ったのです。ジョゼフィーヌの美貌と知性に夢中になったナポレオンは、ついに彼女に求婚したのです。

 
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[17]カール大帝の護符 (4)

(2011年7月号掲載)
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
その頃のナポレオンには、マルセイユの裕福な家庭に育った婚約者がいました。しかし彼はその婚約を反故にして、1796年、ついにジョゼフィーヌと結婚します。ときにナポレオン26歳、ジョゼフィーヌは二児を連れた32歳でした。

恋多き女であるジョゼフィーヌは、妻となってからも、夫の熱愛をよそに、次々と愛人を作っては浮気を繰り返します。どうやら彼女は、ナポレオンを「無骨でつまらない男」と見ていたようで、イタリア遠征中の夫から有名な熱烈ラブレターを受け取っても、返事を書かないどころか、読もうとさえしなかったと伝えられています。

一向に浮気癖のおさまらない妻に絶望するナポレオン・・・。次第に彼の気持ちは冷め始め、他の女性に向いていきます。皮肉にもジョゼフィーヌの方は、この頃から、夫を真剣に愛するようになっていったようです。

やがて、ナポレオンは「フランス皇帝ナポレオン一世」となり、ジョゼフィーヌは皇后となりました。 そしてその後に、アーヘン大聖堂を訪れたジョセフィーヌは、「カール大帝の護符」に魅せられ、ナポレオンに献上させようと目論んだのです。

 
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[18]カール大帝の護符 (5)

(2011年8月号掲載)
皇后ジョゼフィーヌの戴冠式皇后ジョセフィーヌの戴冠式
さて、千年の長い眠りから覚め、いよいよ「カール大帝の護符」が再び歴史の表舞台に登場するときがやってきました。

フランス皇后となったジョゼフィーヌが、ドイツ・アーヘン大聖堂を訪れた際、大聖堂の関係者は、それまで宝物庫に大切に保管されていた至宝を彼女に披露したのです。

「皇帝の石」という異名は、やはり間違いではありませんでした。
ジョゼフィーヌは、この見事なサファイアを一目で気に入り、夫ナポレオン一世に献上させます。ナポレオンはそれを妻に贈り、そしてジョゼフィーヌはこの石を手に入れました。

「カール大帝の護符」の威力も手伝ってか、次第に浮気をやめ、夫に尽くし始めたジョゼフィーヌ・・・その彼女の内助の功もあって、ナポレオンは、イギリスとスウェーデンを除く、ヨーロッパ全土の制圧を成し遂げます。ジョゼフィーヌは、兵士たちから「勝利の女神」とあがめられたといわれます。

しかし、悲劇が待っていました。ナポレオンとの間に嫡子が生まれないことを理由に、彼女は離縁させられるのです。その後ナポレオンは、ハプスブルク家の皇女と再婚し、ジョゼフィーヌの手元には、「皇后」の称号と「カール大帝の護符」が残されました。

 
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[19]カール大帝の護符 (6)

(2011年9月号掲載)
ナポレオンのロシア遠征ナポレオンのロシア遠征
ナポレオンの正妻の座を追われたジョゼフィーヌは、離婚式で前夫との間の娘オルタンスに支えられなければ歩くことができないほど、打ちひしがれていたそうです。 その哀れな様子からは、夫ある身でありながら蝶のように男性遍歴を繰り返した、華やかな過去の姿を想像するのは難しかったかもしれません。

離婚後、彼女はパリ郊外の城と十分な年金を与えられ、51歳で死去するまで何不自由なく余生を送りました。夫婦ではなくなったものの、生涯ナポレオンのよき相談相手であったとも伝えられています。

一方のナポレオンは、ジョゼフィーヌとの間には得られなかった待望の皇太子を、再婚した妻との間に授かります。しかし、凋落のときが迫っていました。

「カール大帝の護符」がジョゼフィーヌとともに手元を去ったときから、どうやらツキは落ち始めたようです。 護符の中央に埋め込まれたサファイアが別名「皇帝の石」と呼ばれていたことを、ナポレオンは知らなかったのでしょうか。ジョゼフィーヌと離婚せずにいたら、あるいは歴史は変わっていたかもしれません。
 
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[20]カール大帝の護符 (7)

(2011年10月号掲載)
ジョセフィーヌアンペラトリス(皇后)・ジョゼフィーヌ
ジョゼフィーヌ亡き後の「カール大帝の護符」の行方をお話しする前に、ジョゼフィーヌの晩年の様子に少し触れてみたいと思います。

彼女は、前述したようにナポレオンと離別後、パリ郊外のマルメゾンの城で余生を送りました。サロンには、その飾らない人柄を慕って多くの人が集っていたようです。

また、バラの愛好家としても有名でした。今日でも、彼女の名に因んだ品種があるのをご存知でしょうか。城の庭には世界中から集めた250種以上のバラが植えられ、そのコレクションは趣味の域を越えて、学問的にも意味のあるものだったといわれます。ジョゼフィーヌは、ただバラを愛でただけでなく、後世の人々のために植物画の専門家に絵を描かせ、それを資料として残してもいるのです。

退位したナポレオンがエルバ島に流された後、多くの人は彼を見限りましたが、親身に援助したのがジョゼフィーヌその人でした。しかし、彼女はナポレオンがエルバ島を脱出してパリに戻り、復位を成し遂げた姿を目にすることなく、急逝したのです。そして「皇帝の石」はジョセフィーヌの娘オルタンス・ド・ボアルネに受け継がれました。

 
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[21]カール大帝の護符 (8)

(2011年11月号掲載)
オルタンスオルタンス・ド・ボアルネ
離婚した後も、ナポレオンの良き理解者であったジョゼフィーヌが死去したのは、ナポレオンがエルバ島に流されながらも、脱出してパリに帰還する1年前のことでした。 もし彼女が生きていたら、たとえ百日天下であってもナポレオンの復位をどれほど喜んだことでしょう。

そして「カール大帝の護符」を受け継いだのは、ジョゼフィーヌと前夫アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵との娘、オルタンス・ド・ボアルネでした。残された肖像画を見る限り、オルタンスも母ジョゼフィーヌに似て美しく、性格もこれまた母譲りの陽気で社交的な女性だったようです。義父ナポレオンは、最も可愛がっていた弟のルイ・ボナパルトとオルタンスの結婚を強く望み、オルタンスもこれに従いました。

その後ルイ・ボナパルトはオランダ王に、オルタンスは王妃となります。彼女はルイとの間に、のちにナポレオン3世となるルイ・ナポレオンら3人の男の子をもうけましたが、陰気な性格のルイとの夫婦仲は悪くやがて離婚。三男のルイ・ナポレオンだけが母に引き取られました。

オルタンスの死後、「カール大帝の護符」は、この三男すなわちナポレオン3世に受け継がれてゆくのです。

 
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[22]カール大帝の護符 (9)

(2011年12月号掲載)
チュイルリー宮焼失前のチュイルリー宮
「カール大帝の護符」を母ジョセフィーヌから引き継いだオルタンス・ド・ボアルネについて、もう少しお話ししましょう。彼女は、義父ナポレオンがエルバ島を脱出してパリに帰還した、いわゆる百日天下の間、チュイルリー宮に入り、女主人役を務めたといわれます。

ナポレオンには、ハプスブルク家から嫁いだ二人目の妻がいましたが、そのマリー・ルイーズは、ナポレオン退位の前にすでにパリを離れ、ウィーンの父のもとに帰ってしまいました。そして、夫のパリ帰還の際には、別の男性と恋仲になっていたのです。最後までナポレオンに忠実だったのは、母の思いを知ってか、オルタンスと兄ウジェーヌだけでした。

ナポレオンはワーテルローの戦いに敗れ、セント・へレナ島へ流されて、その地で果てます。最期の言葉は「フランス、陸軍、陸軍総帥、ジョゼフィーヌ・・・」だったとか。結局、彼が本当に愛した女性は、ジョゼフィーヌただ一人だったのでしょう。

フランス帝国崩壊後、オルタンスはドイツ、イタリアへと亡命。晩年はスイス、チューリッヒの城館に住んで、1837年に54歳で死去しました。そして息子ナポレオン3世が受け継いだ「カール大帝の護符」は、いよいよ最後の持ち主へと渡っていきます。

 
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[23]カール大帝の護符 (10)

(2012年1月号掲載)
トー宮殿トー宮殿
「カール大帝の護符」は、ジョゼフィーヌの娘オルタンス・ド・ボアルネから、その息子ナポレオン三世に受け継がれ、やがて、最後の持ち主となる皇后ウジェニーに贈られました。

ウジェニーはスペイン貴族の娘でしたが、フランスで教育を受け、美しく、たいへんに知性のある女性だったと伝えられています。彼女は、第一次世界大戦中にドイツ軍に砲撃された、フランス・ランス市のノートルダム大聖堂の修復を援助するため、このタリスマン(護符)をランス市へ寄贈しています。

ランスはパリの東北東約130kmにある、シャンパーニュ地方の中心都市で、ノートルダム大聖堂は、歴代フランス国王の戴冠式が行われてきた、由緒ある建物(ユネスコ世界遺産)。「カール大帝の護符」は、その大聖堂に隣接するトー宮殿に、戴冠式ゆかりの宝物などとともに、現在も展示されています。

大帝とともにドイツで長い眠りに就いた後、千年の時空を越えて、二人のフランス皇帝とその妻たちに渡った巨大なサファイア入りの護符・・・。「皇帝の石」ともいわれた別名は、やはり偽りではなかったようです。(終)

 
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[24]マクシミリアンの2つのダイヤモンド (1)

(2012年2月号掲載)
マクシミリアン皇子マクシミリアン皇子
今回から始まるのは、ナポレオン三世によってメキシコ皇帝の座に就けられたものの、在位わずか3年で悲惨な最期を遂げた、オーストリア大公マクシミリアン皇子と、彼がブラジルの密林で見つけた2つのダイヤモンドのお話です。

皇子は1832年、6世紀にわたってヨーロッパに君臨した、名門ハプスブルク家の次男として生まれました。オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ一世は2歳違いの実兄、その妻で、ミュージカルなどでおなじみの美貌の皇后エリザベートは、義理の姉にあたります。

1857年、マクシミリアン皇子はベルギー王女シャルロッテと結婚。ウィーンの兄とは不仲で、アドリア海最奥部トリエステの、海を望む絶景の場所に城を構えて暮らしていました。

国王の娘シャルロッテはプライドが高く野心家で、義姉エリザベートに対抗心を燃やしていたようです。
1860年のある日、マクシミリアンはブラジルの密林での植物調査に同行し、2つの大きなダイヤモンドを見つけました。

 
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[25]マクシミリアンの2つのダイヤモンド (2)

(2012年3月号掲載)
ナポレオン2世ナポレオン2世(ライヒシュタット公)
ブラジルで2つのダイヤモンドを手に入れたマクシミリアンには、出生にまつわる噂がありました。

彼は祖父フランツ二世の次男カール大公を父に、バイエルン公国のプリンセス、ゾフィを母に生まれています。しかし、生まれる前から、父親は別の男性ではないかと公然とささやかれていたのです。

カール大公にはマリー・ルイーズという姉がいました。この名前、ご記憶の方もいることでしょう。「カール大帝の護符」で登場しています。そう、跡継ぎを生めなかったジョゼフィーヌと離婚後、ナポレオンが再婚した相手です。彼女はナポレオンが世継ぎを生んでくれる花嫁を捜していると聞いたとき、友人への手紙に「次のお妃になる方は、お可哀想」としたためたとか・・・その、まさかの次のお妃になったマリー・ルイーズが生んだ待望の男子こそ、マクシミリアンの実の父親ではないかとされる人物なのです。

後にライヒシュタット公の称号を与えられたナポレオン2世は、父に似ず長身の美青年で、恋の噂も多かったようです。そして血の繋がらない叔母であるゾフィとは、ウィーンでお互いに「よそ者」同士・・・孤独な心を寄せ合ったのでしょう。 噂の真偽は不明ですが、マクシミリアンの野心の強さは、ナポレオンの血を引く証かもしれません。

 
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[26]マクシミリアンの2つのダイヤモンド (3)

(2012年4月号掲載)
ゾフィー大公妃ゾフィー大公妃
今回は、マクシミリアンの母、ゾフィー大公妃にスポットを当ててみましょう。

ゾフィーは、現在の南ドイツを治めていたバイエルン王家の三女として、ミュンヘンで生まれました。聡明で、ほっそりとした大変な美少女であったといわれ、19歳でハプスブルク家の次男カール大公の許へ嫁いできました。しかし、鈍重で魅力のない夫に、まったく愛情を持てなかったようです。

また、自由な気風のバイエルンと異なり、堅苦しいウィーンにもなじめなかったのでしょう。長男フランツ・ヨーゼフが生まれるまでの6年間は、世の顰蹙(ひんしゅく)をよそに夫の甥である年下でハンサムなライヒシュタット公(ナポレオン2世)を誘って、頻繁にオペラや舞踏会に出かけていました。

さらにライヒシュタット公が病に倒れてからは、献身的に看病。ゾフィーの次男として生まれたマクシミリアンの実の父親は彼ではないかとささやかれたのもうなずけます。

ゾフィーは後年、「宮廷で唯一の本物の『男』」と呼ばれるほど有能な女傑となり、皇位を継いだ長男フランツ・ヨーゼフの嫁エリザベートにも厳しい王妃教育を施しました。

また野心家の次男と、皇帝である長男の間に亀裂が生じないよう、非常に気を配ったともいわれています。

 
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